フィリップ・マーローの時間

意識があるかぎり時間は連続していて途切れることがない。睡眠や気を失ったときに句読点がはいるだけである。チャンドラーは、長編を七つ書いたが、五つ目までは、厳格なまでにこのような時間の扱いをした。主人公は、何かの探偵の依頼をうけ、問題に巻き込まれ、それを解決して、次の依頼を待つ元の生活に戻っていく、これらの詳説の中に流れる時間は、一度も途切れなかった。

だから、というわけではないが、小説の始まりから終わりまで、あれだけのプロットを詰め込んであるのにもかかわらす、二日か三日しか経過していないことがほとんどで、本自体を例えば一週間かけて読了すると、気持ちの上で微妙な違和感が生ずる。小説のなかでは、連続して起きた時間が、読み終わった後に回想してみると、それらが何日か距てているようような気がしてくるのだ。

それ自体はべつにこちらの記憶の都合の話なので取り立てるほどのことでもないが、困ってしまうのは小説の「場」の連続性だ。ふたつの事件が続けて起きると、その事件の当日の、天気、場所、登場人物、衣装、小道具は、最初の事件で語られて、次の事件ではその説明がない。ところが記憶のなかで、この二つの事件を別個に思い出してしまうと、二つ目の事件の場が無くなってしまうのだ。

チャンドラーは、The Long Good-byeを書いたとき、プロットの描写を、この記憶の時間に近い、時間の流れで扱った。相変わらずすべてのプロットは、時間通りに流れているところには変わりはないが、プロットとプロットの合間に、「一週間がたった」とか「LAは雨期に入った」などの句読点が入り、プロットのごとに場の説明が、(非常に細かく)おこなわれるようになった。結果としてポストプロダクションで編集を入念におこなった映画のような大傑作になった。