雪は踊っている

朝の散歩のとき、家を出たばかりの頃はそれほどではなかった雪が、歩きはじめてものの十分をしないうちにひどくなって、幸いにして風がそれほどでもなかったので苦にはならなかったけれども、いつこの地方独特の暴風雪にならぬかと内心はひやひやしていた。雪の降り始めはゆっくりと、軽い雪が羽毛のように降りてきて、それこそ腕や肩のかすかに動かすだけで、まるで何かにはにかんでいるような繊細さで反応するのである。その雪を睫毛と唇に感じながら歩いて行くと、やがて自分が、上下左右のない特別な時空間のなかに入り込んで、あてもなく浮遊しているような気になってくる。それがなぜだかがわかる。雪の降っているこの朝には、当然広がりと奥行きがある。そこを白い粒子が再現もなく上から下に流れ、それが無限の流れが、雪の降り続く空間から、時間を取り除いてしまうのである。

雪は無数の雪の結晶が、間断なく降り続く自然現象であるが、その雪の一粒一粒を言い表す言葉を見つけることができない。現象を言い表す形容詞はあるのに、それを構成する物質を言い表す名詞がないのはどういうことだろう。エスキモーには雪を表す単語が無数にあると言うから、それを見つけることができないのは、ただ単純に自分が黒潮の流れる暖かい地方で育ったためで、その変えようのない事実のおかげで、今朝の雪の散歩の情景を適切に表現できないのは、あまりに寂しすぎるとも思うが、仕方が無い。とにかく呼び方はわからないけれど、その「それぞれの雪の小片」がでたらめの動きをし、しかしその実、すべてが一様に上から下に降り続く様は、実際の空間の奥行きとひろがりをともなって、まるで宇宙空間の星の海を移動しているように錯覚する。

例えば牡牛座の壮大なハイアデス星団のなかで、ひときわ目立つ赤い星アルデバラン、この星だけはずいぶん手前にあって、地球からの距離を星団とくらべるとその半分しかない。星団の中の一番目立つ星が、実は一番小さく、その星団の一部ですらないというはとても皮肉なことだ。雪の降る中を歩いていると、その皮肉がよくわかるような気がする。奥行きのなかで、遠くにある雪は細かな点描になり、睫毛にかかる雪の背景にしかすぎなくなる。しかし歩き続けると点描は、ゆきの粒子の大きさになり、やがて羽毛になり、それが睫毛にかかる頃には、そのむこうに新たな点描のカーテンがあらわれる。だから歩みを止めてはいけない。歩みをとめると、点描のカーテンは四方を取り囲み、それらが揺れ動く錯乱のなかで、帰り道がわからなくなる。