テストラン その1

もう阪神国道を走っている車の窓から、微醺を帯びたチラチラする眼で、濡れた舗装道路に映る無数のヘッドライトの交錯をうっとり見ていた。さきほど、夕食の席で交わした会話を、いまゆっくりと思い起こしてみると、何一つ確かなことは語られなかった代わりに、ときおり言葉と言葉のあいだにしみこんでくる音楽ばかりが思い起こされるのであった。作曲家の名前は忘れてしまったけれども、あの人が子供時代の頃の思い出話をしていて、

「昔は、いまよりもっと寒くて…」

といった途端に流れ出した「もみの木」とかいうピアノ曲、あの曲のお陰で子供の頃の家路を急ぐ夕暮れと、家で自分を待っているまだ若かった家族に、もう一度出会えたような気がした。過ぎ去ったことをいつまでも懐かしがってばかりいても、埒のあくことではないことは解っているが、今より昔が絶対に良いといえるなによりの一番は、そこには若い両親がいることだ。

「運転手さん、そこの銀行の影をまわってください」

そうあの頃、そこには銀行などはなく、逆にその先には、とっくの昔に都市開発でつぶれてしまった彼女の生家があった。

翌朝は、昨日の雨がまるで嘘のように晴れ上がっていて、昨日の出来事を、ずっと遠い昔へとおいやっていた。こうなると占めたもので、あのときへんに感傷的になっていた自分を、痛恨の気持ちで思い出す必要もなく、かりに誰かに昨日どういう話し合いがなされたかをきかれたとしても、どこかの遠い国の作家が書いた小説の、適当な一章を読み上げるようなもので、いたって平常心でいられるのであった。そのような気持ちで庭を眺めていると、近所の飼い猫が今日も散歩に来ていて、昨年切り倒した銀杏の木の切り株のうえにすわりこんで、隣家の生け垣の根元を一心不乱にみつめていた。と、けたたましく鳴る電話の音がして、それに続く姉の声。

「あ、昨日はいろいろお世話になりまして... ええ、いろいろとごちそうになりっぱなしで恐縮しております。はい、家には渋滞もなく、着いたのが九時ちょっとすぎだったので、とてもスムーズでしたよ。そちらは?ああ、ちょうど球場の終了時刻と重なって。。。それはお気の毒様でした。この季節はどうしようもありませんね。はい、いまかわりますので、ちょっとお待ちを」

天気の良い朝だからといって、かならずしも良いことばかりが起こるとはかぎらないようだ。しぶしぶと姉のいる居間にむかった。

雪は踊っている

朝の散歩のとき、家を出たばかりの頃はそれほどではなかった雪が、歩きはじめてものの十分をしないうちにひどくなって、幸いにして風がそれほどでもなかったので苦にはならなかったけれども、いつこの地方独特の暴風雪にならぬかと内心はひやひやしていた。雪の降り始めはゆっくりと、軽い雪が羽毛のように降りてきて、それこそ腕や肩のかすかに動かすだけで、まるで何かにはにかんでいるような繊細さで反応するのである。その雪を睫毛と唇に感じながら歩いて行くと、やがて自分が、上下左右のない特別な時空間のなかに入り込んで、あてもなく浮遊しているような気になってくる。それがなぜだかがわかる。雪の降っているこの朝には、当然広がりと奥行きがある。そこを白い粒子が再現もなく上から下に流れ、それが無限の流れが、雪の降り続く空間から、時間を取り除いてしまうのである。

雪は無数の雪の結晶が、間断なく降り続く自然現象であるが、その雪の一粒一粒を言い表す言葉を見つけることができない。現象を言い表す形容詞はあるのに、それを構成する物質を言い表す名詞がないのはどういうことだろう。エスキモーには雪を表す単語が無数にあると言うから、それを見つけることができないのは、ただ単純に自分が黒潮の流れる暖かい地方で育ったためで、その変えようのない事実のおかげで、今朝の雪の散歩の情景を適切に表現できないのは、あまりに寂しすぎるとも思うが、仕方が無い。とにかく呼び方はわからないけれど、その「それぞれの雪の小片」がでたらめの動きをし、しかしその実、すべてが一様に上から下に降り続く様は、実際の空間の奥行きとひろがりをともなって、まるで宇宙空間の星の海を移動しているように錯覚する。

例えば牡牛座の壮大なハイアデス星団のなかで、ひときわ目立つ赤い星アルデバラン、この星だけはずいぶん手前にあって、地球からの距離を星団とくらべるとその半分しかない。星団の中の一番目立つ星が、実は一番小さく、その星団の一部ですらないというはとても皮肉なことだ。雪の降る中を歩いていると、その皮肉がよくわかるような気がする。奥行きのなかで、遠くにある雪は細かな点描になり、睫毛にかかる雪の背景にしかすぎなくなる。しかし歩き続けると点描は、ゆきの粒子の大きさになり、やがて羽毛になり、それが睫毛にかかる頃には、そのむこうに新たな点描のカーテンがあらわれる。だから歩みを止めてはいけない。歩みをとめると、点描のカーテンは四方を取り囲み、それらが揺れ動く錯乱のなかで、帰り道がわからなくなる。

ニューヨークの州立公園の過ごし方

海に向かって、車を走らせていくと、やがて州立公園のゲートにつきあたる。この時期はだれもゲートブースにいないので、そのまま通過して公園内の道路に入る。車のスピードは思い切り落とす。高速から直接はいるのでその案配が難しいが、これだけはきちんとまもらないと、マナー違反だし、なによりも交通事故を起こすのが怖い。車道は四車線の立派な道路だが、ときおり散歩道だのサイクリング道などの横断歩道が横切っていて、そのまえに立派なスピードバンプが結構な高さでもってあるので、まとも突っ込むと、サスペンションの底まで突き上げがある。この公園は自然公園であるとともに、運動公園でもあるので、ポロ場とか、ヨットハーバーなどの施設毎に駐車場案内道路が導かれていて、標識をよくみていないと、行きたい場所は目の前にあるのに、そこにはいることがでいない、などという目に遭う。いくつもの駐車場をすぎて、ようやく目的の場所にたどりつく。

そこは、海に面した広場で、駐車場が水際まではりでている。運良く最前列にとめることができると、車の運転席から海までのあいだに何も遮る物がない。全く揺れない船の艦首にいるようなもので、ハンドルにもたれかかって、さざ波に太陽がきらめいているのを見ていると、何時間でも過ごすことができる。今は冬なので、窓を開けるのには多少勇気がいるが、その気になれば、ヒーターを目一杯たいて、こたつ気分で潮の香りだって楽しむことができる。ここは大西洋で、寒流がすぐ沖を流れていて、さらに何千も昔に氷河が栄養分にとむ土をけずりとってしまったので、おそらく海藻が全く生えない不毛の海で、水はどこまでも澄んではいるけども、ほとんど生態反応というものがない。黒潮の海ように、おびただしい小魚の群れで、水面のあちこちにさざ波が立ち、それを追う大きな魚があちこちに巨大な波紋をつくり、それを狙った鳥がたてるあちこちの水しぶき、そんな生命を全く見ることができない。静かで冷たい冬の海。

チーズとハムのサンドイッチを食べ終えて、ブラックティーを飲んでから、一旦車外にでてパンくずを入念にはらい、ついでに車のシートやフロアーをきれいにしてから、車のエンジンをかける。良く晴れていたけれども、こういう日の常で、厳しく冷え込んでいて、車内の気温もかなり寒くなっている。幸いに、エンジンはすでにウォームアップしているから、すぐに暖かくなる。車は駐車場を離れ、州立公園の一番奥にある、バンガローのある地域を走る。切妻屋根のバンガローが、フロントテラスを海側に向けて行儀良く建てられていて、全部で十棟くらいある。テラスを望むリビングが一面のガラス張りで、人目を気にする上に、陰影などをこのみがちな、日本人的感性に照らし合わせてみると、なかなか落ち着かない作りだと思う。

やがて来るときにくぐったゲートを反対方向に通行して州立公園をあとにする。くどいようだが、このように高速道路に直結しているゲートは、スピードのコントロールが難しい。しばらくは後ろの車にあおられながら走ることになる。午後から風がでるという予報通りに、帰る頃には空のあちらこちらに、積乱雲が盛大に湧き上がり、強風にあおられてすごいスピードで太陽をかすめていくので、その巨大な影が大地をせわしくひっかいていく。ときおり雲からさっと日が射し、それが灰色の雲の峰の陰影をおどろおどろしくみせるので、なんとも尋常ではない雰囲気をかもしだす

風の無い街

頭の中に自分の街を建設する。建材は言葉。どんな街でも造ることができるが、それが例えば、夢の中でさまよったことがある、見しらぬ街に似ていれば、そこには懐かしい夕暮れの空気が漂うだろう。

ぼくの頭の中の街をあるいてみる。陽気な楽しい人たちにたくさん出会う。一度も合ったことの無い人たちだけれど、僕のDNAが記憶してくれている。遠い昔の、どこかの国の、だれかだ。未知の人との再会はいつでも楽しい。

古今の文学の中で、多くの街がつくられ、いくつもの物語が語られてきた。おびただしい言葉の建築物。そこに生きる人たちは、顔はぼんやりしているが、はっきりとした心と声を持っている。

たとえば、何かの紀行文で読んだ街がとても美しいと思ったとき、よせばいいのにそれを確かめたくて、グーグルビューで訪れてみることがある。そして風のない街をみて失望する。確かめると言うことは、疑うと言うことだ。

優しさについての考察

この歳になると、世の中のごたごた、特に不愉快なことなど沢山経験して、それなりに分別がつき、若い頃よりも用心深くなるものである。その人生を通しての観察のなかで、意外なコペルニクス的転回があったものに、「優しさ」についての知見がある。

いろいろな老人を狙った詐欺は言うにおよばず、演歌や私小説の世界でも、優しさは悲劇の導入部になることが多い。要は過度の 優しさは、対人関係の中で相手にスキを与え、それにつけ込まれる被害を誘発する。そして被害者たちの優しさは、結局「だまされる方が悪い」と諭される。

そういうことが頻繁にあることは確かに事実だが、だがしかし、周りを静かにじっくりと眺めてみると、日本でもアメリカでも、都会でも田舎でも、優しい人の方が幸せになっていることのほうが圧倒的に多いように見える。これは一体どういうことなのだろう。

その理由は明確で、つまり人に優しい人は、人にも優しくされる、その優しさの量が多ければ、受け取る優しさの量も多い、だから幸せなのだ。一方は優しくない人は誰にも優しくされないので、彩りが乏しい寂しい人生になる。これは物理学の作用反作用の法則と同じで、結局すべての事象は均衡の方向に進むのだ。

コロナのニュース、ニューヨークタイムズから

今朝のニューヨークタイムズで、コロナについて、ショッキングという言うのではないのだけれど、なんとも薄気味悪い記事を読んだ。記事はまず「変異種」についてはじまる。今年の2月から米国を席巻してきたウイルスははイタリア種と呼ばれる物で、変異種とくらべれば全然感染力の弱い物だ。それすら押さえ切れていないのに、さらに強力なのが、急速にその勢力を広げている。

つぎにワクチン接種の遅れについてだ。トランプが当初打ち上げた計画では、今年の一月一日までに、2000万人の接種を完了するということであったが、実績はたったの300万人も満たない。特にディープサウスという南部の州が深刻で、何があろうとトランプを支持してきた州だけに、そこでの異常な立ち後れは、政権の末期のとても象徴的な事象になっている。

しかしこれもバイデンが政権を発足したら、少しずつ事態は改善の方向に向かうという見方がでてきた。選挙に負けてから、すべて大統領職務を放棄し、自分が勝てるよう民主主義のルールを変えることだけに注力していた、そのトランプ政権が来週終わるからだ。四月一日まで1/4のアメリカ国民が一回目の接種をうけ、6月にはそれが半分を占め、秋中旬に4/3というのが新しい工程表だ。

変異種の台頭とワクチン接種のバランス、これらを並べて見ると、物事が良くなる前に、さらに悪くなるというのは火を見るより明らかであり、実際に、入院患者の数は2ヶ月前の倍になっているのだが、その2ヶ月前にも、2ヶ月前より倍になっていると言っていたのでは無かったか。文字通りの倍々ゲームで、もはやかかって当たり前、かかったらどうするかというドリルを考えた方がよさそうだ。

ニューヨークで見る星座

この季節の夜空は、オリオンが頭上に輝き、双子座がよりそうように見えて、東南のパノラマが、とても美しい。しかし、ここはニューヨークの郊外、9時をすぎても、空はぼんやり明るく、そのおかげで、双子には両手両足が欠けていて、おおいぬ座は首から上が無い。

西南の空、ちょうどオリオンとペガススの大四辺形のあいだによこたわるあたり、そこには星が一つも見えない。月か惑星が、運良くそのあたりをかすめたときだけ、星空らしくなるニューヨーク一の不毛地帯だ。家の庭からはそちらの方面の空が一番開けているので、とても残念だと思う。

しかし、星が見えなければスターアトラスをたよればいい。この夜空に、心の目で、天の川が見える。いまその目が夜空を見つめている。オリオン座の下には、うさぎ座がある。耳の形がかわいらしい星座で、この鼻先から西に少しだけ目をうつすと、クリムゾンスターという十等星、全天でもっとも赤い星だ。

赤い星があると、青い星がきれいに見えるよ。ペテルギウスとリゲルはオリオンの右下がりの対角線。ガーネットスターとケフィウスの一番星。牡牛座のアルデバランとその背後の宝石をばらまいたような若い星団。しかし何よりも心の目の良いところは、この極寒の季節に、室内から星座がみえるところだ。