ロングアイランドは島か半島か?

ニューヨークの西側にあるロングアイランドが、マンハッタンを起点とする半島と考えるのか、イーストリバーにうかぶ巨大な島と考えるかは、いろいろ意見の分かれるところだが、アイランダーといわれる古くから言われる住民の感覚では、半島でもあり島でもあるというのが正直な気持ちであろう。

それはつまりこういうことだ。グランドセントラル駅から西に向かう地下鉄にのると、すぐにイーストリバーの地下のトンネルを通り、ロングアイランドに上陸するが、その地区はブルックリンとブロンクスで、生活圏としては最もニューヨークらしいところである。ここの食生活がNYのローカルフードであり、ここで喋られる言葉が代表的なニューヨークアクセントとなる。

したがって、ロングアイランドの西側をしめるこの地区は、ニューヨークシティそのものであり、そこの住民からみれば、ロングアイランド心理的にニューヨークと地続き、すなわち半島ということになる。

しかしここをすぎるとナッソー群とサフォーク群となるが、ここまでくると、イギリスから最初に入植した最も由緒正しいアメリカ人の祖先が、いわゆるオールドマネーと言われる大資金をつかって作った街々がとくに北側の海岸に並び、「華麗なるギャツビー」の舞台と言えばわかりやすいだろうが、そういう人たちが権力者として影響を持つものだから、俄然ニューヨークとは独立した島の風情が強くなる。

言葉もまるで舌を巻かないボストン風になり、食べ物も特にブルックリンのトマトたっぷりの赤主体の物から、クリームを多用した白主体のものに変わる。それと同様に、移民者も南米中米系の人が多くなり、同じラテン系でも、ヨーロッパ・ラテン系の多いニューヨークシティとはまるで異なる。だからロングアイランドの中東部に住む人にとっては、ここは紛れもなく島ということになろう。

ブログについての自己規約

何につけ書くということもひとつの行動であり、その行動を続けていくためには、日々の練習が必要になってくる。何かを伝えるために書こうとすると、その伝える何かを探さなければいけないが、それが毎日となるといささかしんどいのだ。そこで心理学でいうところの「ジャーナル」という手法をつかって、伝えることが何もなくても決めた時間だけひたすら書き続けると言う手法が利用をりようしてみる。書くことを、書くことの目標とするのである。

上手な文章を読んでいると、読むと言うよりは聞くという感じに近い物が多い。実際に口述筆記で書くという人もいるらしいが、喋るように書くというのは今までずっと目標にしてはきたが、一度もそれをやれた試しがない。少年時代に芥川龍之介に夢中になったとき、彼の、まるで石に刻みつけるように書いた彫琢を極めた文章を最上の物とするという信仰が、いつしか自分の心に染みついてしまったからかもしれない。だから文章を書くのが非常に億劫なのだ。

たとえ自己満足に過ぎないとしても、いい物を作るために楽しみを捨てても良いという考えは、よくよく僕たちの世代の日本人の気分にあうものであるが、それが実はすべてをだめにしているという事実もある。ようは「えーかっこしい」による堕落であるが、気の利いた文章をつかおうと、古今の名著を引用するなどもってのほかで、それは文章をよくするためでなく、その文章を書いている人間をよく見せようとするとても卑屈な根性で、人がやっているのを読むと、書き手のどや顔がみえるようで、以上に胸くそ悪し。

というわけで、まずはともあれ、喋るように書くように努力すること注力することにする。それはキーボードを叩く指に喋らせるという新しい試みで、脳から声帯に通じている神経を、指先につなげ直す訓練だ。そのようなことが、できるかどうかわからないが、もしできるようになったら、おしゃべり好きの自分にしてみれば、これほど楽しいことはない。まずはやってみることだ。